あれから3年…東北沿岸被災地見学

≪地元の人の声≫

・“津波がきたら、とにかく高台へ。 なにももたなくていいからまず逃 げなさい。”と学校や家庭、さらに各種メディアでも伝えていってほしい。震災の記憶や教訓を伝えていくことが一番です。

・防波堤は津波を防ぐのではなく、逃げる時間を稼ぐもの。

≪田老≫

平成23311日 PM2:46 津波平均26m 陸地到達29m  

人口4,000人  犠牲者181  人行方不明者41

田老の駅へ降りた。駅員が階段の前に立って切符をうけとる。そのまま階段を下りてコンクリートの通路を通り抜けるとそこは、もう外に出てしまった。なんか変な駅と思った。ここに駅舎があったのだということが、タクシーのガイドで解る。

それでも「三鉄」は動き始めていた。

この「なんか変」という感覚的なものは、何回も何回もかんじていた。

もうほとんど瓦礫も撤去されていて、草があたり一面被い茂っている中の道路を山肌に住宅でも建てるのかトラックの往来が目についた。

 

常安寺の住職さんにもせめて、昨年のうちに来るべきであったと言われた言葉を思い出した。


三陸沿岸は津波で大被害にあったと聞いて驚いて尋ねてみると、昔40数年前八戸から宮古まで、リアス式海岸を南下した時の三王岩と浄土ヶ浜の自然は昔の姿のままでした。

 

田老では 〇明治29年に15m 〇昭和8年に10m の津波におそわれ防波堤をX状に築き、田老の万里の長城が完成する。これで津波に対しての危機感より、安心感の方が強くなり、逃げない人も多かったとの事でした。


防潮堤にみる自然への畏敬の念や自然と人間の共生の再確認・・・

広々とした被災地一面に咲くピンクのクローバ見つめ・・・

白と茶の可愛い犬の縫いぐるみの頭なで合掌・・・

 

                     ・・・・・・ 復興を祈る・・・・・           


バスの車窓から見る点々と不規則に建てた仮設住宅。何棟も固まって立っているかと思えば、点在して空き地を探し応急措置的に建てたような住宅・・その中に震災で疲弊した人たちの現在の営みがある、心を寄せて思いをはせてみるとその方々の苦労を少しだけ理解出来た感じがしました。地震は他人事ではない!あの日TVの映像で見た悪夢のような現実を決して忘れてはならないのだと心に誓う研修旅行になりました。3年過ぎて濁流に巻き込まれた地域から上の山々には、いろいろな緑の中に半月粧のような葉や、山帽子がかわいらしく今の時期を謳歌するように咲いていました。まるで人々を癒しているかのように思えました。

 

*被災直後、宮古の市長が“かならず宮古は復興します”と言うアナウンスを拡声器で流していたそうです。


宮古山常安寺七世霊鏡竜湖和尚(1727年没)が人里離れたこの地を訪れその美しさに驚嘆。あたかも極楽浄土が再現されたかのようだと七言絶句を読み、これが浄土ヶ浜の名の起こりと言われている。その常安寺を訪ねてご夫妻のおもてなしを受けながら、被災直後のさまざまな様子を、安部文海住職より伺う。

住職はあの日、余震の心配で別院に向かった際には津波が足元までせまってきたこと。山を歩いて常安寺に戻り炊き出しを始め陣頭指揮をとったこと。火葬場の燃料の確保は優先的に手に入ったこと。当時を思い出されたのか、辛そうな表情で黙々と語った。釜石の新日鉄敷地内では南門から逃げた人達は津波にのまれて、北門から逃げた人達は助かった。と運命の明暗を分けた話をしてくれた。

せめて、昨年の内に来るべきであったと…淋しそうに語った。

 

紫陽花の美しい、梅雨のあいまのひとときでした。